「お酒は20歳になってから」が法律で決まったのはいつ?

今月から成人年齢が18歳に引き下げられ、親の承諾なしでクレジットカードを作ったり、賃貸住宅を借りたりできるようになりました。でも飲酒はこれまでどおり20歳から。なぜ、お酒は20歳まで飲んではいけないのでしょうか?

メインビジュアル:「お酒は20歳になってから」が法律で決まったのはいつ?
成年年齢の引下げで変わるもの・変わらないもの(政府広報オンラインより)
成年年齢の引下げで変わるもの・変わらないもの(政府広報オンラインより)

「お酒は20歳になってから」はいつから?

未成年者飲酒禁止法ができたのは1922年(大正11年)です。それより以前、日本では子供がお酒を飲むことは禁じられていませんでした。お正月に家族揃ってお屠蘇(とそ)を飲むときには子供もお酒を口にしました。結婚式で親族が集まり杯を交わすときも同じです。15歳くらいになると若者同士が集まってお酒を飲むこともしばしばだったようです。

未成年者飲酒禁止法案が初めて国会に提出されたのは1901年のことですが、何年も否決され続けて、成立までに20年を要しました。国会での議論を見ると、当時、未成年が酒をよく飲んでいたことがよくわかります。1913年の質疑で法案に反対する齋藤隆夫議員は「田舎における青年は15歳か20歳くらいまでが青年の花盛りであります。これらの青年が集まって時々豆腐と汁を啜って濁酒を飲む、そうして平生の苦痛を癒し勇気を鼓舞するということは。我邦に於いて古来からおこなわれているところの善良なる習慣であります(抜粋)」と述べています。

こうした議論が毎年繰り返されたようで、当初の法案には「但し結婚縁組に関する禮式の場合にはこの限りにあらず」という記述があり、その後も「但し式典及び医療の場合はこの限りにあらず」「但し吉凶禮式の場合はこの限りにあらず」など例外事項が加えられていました。

未成年者飲酒禁止法を推進した根本正

この法案の成立をリードしたのは茨城県出身の衆議院議員の根本正(ねもと しょう)氏です。彼は1851年(嘉永4年)に水戸藩士の二男として生まれ、苦学して英語を学び28歳で単身渡米、大学を卒業して39歳で日本に帰国します。帰国後は外務省の嘱託として海外移民地探索のために北米や南米の調査にあたり、1898年(明治31年)47歳の時に自由党から出馬、衆議院議員に当選しました。

根本氏は帰国してすぐに日本禁酒同盟を組織しましたが、これにはアメリカ留学時代に現地の禁酒運動の洗礼を受けたことが強く影響しています。当時アメリカでは、キリスト教団体と国家が一体となって「すべての酒類の全面禁止」という厳格な禁酒運動が推進されていました。労働効率を重視する産業資本家と聖職者が協力して各地に禁酒組織が結成されます。まさに「禁酒は労働者にも経済的成功をもたらすものと説く働きかけが始まり、禁酒運動は社会的政治的問題になった」(岡本勝『アメリカ禁酒運動の軌跡』)という状況でした。

彼は同じことを日本で推進し、禁酒運動団体の支援を受けて未成年飲酒禁止法案を提出します。けれども法案は反対多数であえなく否決。その後も法案を提出するものの否決が繰り返されます。
未成年飲酒禁止法を推進した根本正氏
未成年飲酒禁止法を推進した根本正氏。水戸と郡山を結ぶ鉄道水郡線の敷設にも力を注いだ

アメリカの根強い禁酒運動

ところで、当時のアメリカでは禁酒運動がたいへん盛んでした。日本で未成年者飲酒禁止法が成立した2年前には、あの禁酒法を成立させたほどです(1920~1933年)。壮大な社会実験とも天下の悪法とも言われる禁酒法ですが、酒類の製造販売を禁じたことで粗悪な密造酒が出回ったり、酒類を提供する店にギャングがはびこったりして、深刻な社会問題を引き起こしたのはよく知られています。
禁酒運動をサポートしたナサニエル・カリアー(Nathaniel Currier)氏のリトグラフ
禁酒運動をサポートしたナサニエル・カリアー(Nathaniel Currier)氏のリトグラフ。問題飲酒の段階を図示し、最後は自ら銃で頭を打ちぬいて終わっている
アメリカでは今も禁酒運動の影響は見られます。中東部を中心に酒類を販売していない地域(ドライカウンティー)が多数あり、そこまで厳しくなくとも、公の場での飲酒を禁止するなどさまざまな規制があります。
アメリカの禁酒郡
アメリカの禁酒郡。赤は酒類販売禁止、黄色は一部地域で酒類販売規制、青は酒類販売規制なし
ケンタッキー州バーズタウンで開催されるバーボンフェスティバルの飲食ブース
ケンタッキー州バーズタウンで開催されるバーボンフェスティバルは、飲酒できるのは会場のごく一部。オープンな飲食ブースで飲まれていたのはソフトドリンクだった

飲酒は何歳からが適切か?

話を元に戻しましょう。未成年飲酒禁止法案の議論で問題になったことにひとつは、「飲酒を認めるのは何歳からが適切なのか」というものでした。諸外国の例や結婚や徴兵の年齢から18歳を妥当とするものや、それでは酒害の防止には遅い20歳からとすべきなどの意見が出て、なかなか決まりませんでした。民法上に定める未成年(20歳)で線を引くかどうかという論争が長引いたのは、前述したように日本では未成年が当たり前に飲酒していたという実態があったからです。

ちなみに諸外国の飲酒年齢制限は、欧州では18歳以上(ビール・ワインは16歳以上という国もある)とする国が多く見られ、中国は18歳未満への販売は禁止ですが飲酒そのものは制限する法律はないようです。アメリカでは連邦法で飲酒できるのは21歳以上となっています。アメリカはベトナム戦争時代に、一度、18歳に引き下げたのですが、飲酒運転事故や飲酒に絡むトラブルが続出して引き上げました。飲酒が他の依存性薬物の乱用の入口になるという見方も、再度、年齢を引き上げた理由のひとつと言われます。

飲酒を法律で規制すべきか?

もうひとつの争点は「未成年飲酒を道徳でなく法律で罰することの是非」というものです。根本氏はこれに対して、アメリカに倣って飲酒によって堕落した学生を救うのが文明国日本の課題であると力説します。一方、反対派は飲酒のような生活上の問題は法律で決めるものではない、あるいは先進諸国にあるからといって日本がそれに倣う必要はないという意見で、平行線をたどります。

ここでも未成年が酒を飲んできた伝統的な習俗が、近代的な新しい考え方と妥協点を探せなかったのです。実生活では未成年は共同体のなかで一緒に酒を飲むことで仲間とみなされ、大人として扱われるようになっていきました。少なくとも冠婚葬祭のさまざまな行事のたびに、頻繁におこなわれるものです。未成年飲酒禁止法の成立により、こうした慣習は認められないことになりました。

富国強兵のための未成年飲酒禁止

未成年飲酒禁止法が成立する過程でもう一つ見逃せない変化があります。それは大正期に顕著になった大学生という「未成年」の急増です。1897年(明治30年)に2,255人だった大学生は、1916年に9,705人、1926年には52,186人と20年間で23倍に増えます。彼らこそ、日本の将来を担う未成年で、近代教育、軍事教育の最重要ターゲットです。

そして未成年飲酒禁止法の成立に傾注する根本氏の演説は軍事色を強めていきます。「教育が進歩発展しました結果、即ち未成年を取り締まるということは是は当然である。……挙国一致、上下心を一にすると云う場合におきましては、教育というものを個人にまかせておくわけにはいかぬ……我が日本帝国は列強のひとつに加わったのであります。……故に我々の子弟をして益々国益の為に忠勤ならしめ、大いに国力を発展せしめ実業を盛んにするのには、この法案を是非両院共に通過することを切に望むものであります」(1922年)。

こうして日本は、富国強兵のために未成年者飲酒禁止法を成立させます。

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未成年者飲酒禁止法の成立から100年を経て、日本は成人年齢を18歳に引き下げました。18歳で成人としての判断ができると認めました。ならば飲酒年齢や飲酒ビギナー向けの教育機会についても議論すべきでしょう。医学的見地からは、18歳と20歳で酒害の発生リスクがどれほど変わるかが示されるべきですし、たとえば18歳から20歳までの2年間に、飲酒のリスクと酒の社会的&文化的な価値を学ぶカリキュラムを開発するなどしてもよいのではないでしょうか。

※記事の情報は2022年4月7日時点のものです。

  

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